sikanosuke6’s blog

引き寄せ・潜在意識・宇宙の法則……その他こんなこと、あんなこと

健常者であることは「たまたまそうであった」という悟り

いよいよ冬季北京オリンピックでまたにぎわいますね。

ついこの前東京オリンピックやパラリンピックが終わったと思っていたのですけどね(^▽^;)

スケート靴を履いた足11の写真

 

2021の東京五輪で感じたのは、

パラリンピックの存在感というか、注目度がなんかいままでより高くなったんじゃないかということです。

 

 

夜明けとゴールシーンの写真

 

 

ごあいさつが遅れました。

こんにちは、ご縁の出雲の国、島根の鹿之助です。

 

 

昨年パラリンピック競技で、選手の方たちの素晴らしいパフォーマンスを観て

「オリンピック選手と競ったらパラリンピック選手の圧勝かも」

そんな風に感じた競技もありました。

 

車いすのバスケットボールの試合など障害のあるなし関係なくプレーするのもありじゃない? なんて思ったりして……。

 

車いすを扱うことに慣れていない障害のない人にはなかなか難しいだろうなということは察しがつきます……そんなことをぼんやり思っている鹿之助です。

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もくじ

 

 

テーマ『健常者であることは「たまたまそうであった」という悟り』

 

【はじめに】

 

さてさてなんだかオリンピックの話に流されてしまいましたが、今回は

 

健常者であることは「たまたま自分はそうであった」という悟りのようなものについてお話をしていこうと思います。

(悟りなんてエラそうですが、ただの感想みたいなものです)

 

ちょっと回りくどいような言い回しになりましたが

 

ふと最近自分なりに解釈をしたこと、

それは体に関する「障害」といわれる状況についてです。

 

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【少数民族】

 

最近耳に止まったのが、体に障害のある方が

「自分が抱えているものが障害だとは思っていなくて、少数民族のようなものだ」

とおっしゃった言葉です。

素直になるほどと頷けました。

 

たしかに障害を抱えておられる人と、そうでない人の割合からすると

きっとそうでない人のほうが人口的に多くを占めているのは明らかでしょう。

 

これまでの社会は、障害のない人を普通ととらえ、

その人たちを中心として造られている社会の環境というほうが多かったと思えます。

 

 

【ふつうってなに?】

 

では、普通ってなに? という話です。

 

健常者を主体に普通という基準?

 

普通って形のない捉えどころのないものです。

 

 

「五体満足なら」とか、「普通に元気に生まれてきてくれたら、それでいい」

なんていう言葉を言ったりしますが、

 

まてよ、 

五体満足ではなかったらダメ?

それは普通とはちがう? 

という疑問が湧きます。

 

もちろん気持ちはよくわかります。

でも、何かしらの障害を持って産まれてくる人もたくさんいるわけで、

だからといって疎外したりしないでしょう。

 

世の中は一般に、「健常者」といわれる人間を中心に物事が進められていくことの方が多いです。

それはそういう人間を普通ととらえられているからだと思います。

 

そして障害を持たないで今生きている私たちは自分を普通ととらえていると思います。

 

けれどもそれは普通でなく、たまたまだったんじゃないかと思いました。

 

たまたま、あたまがあって

音がきこえて

まわりのものが見えて

手足があって

声を出せて

すこしづつ大きくなって

 

そんな人間ができた。

たまたまこんな人間にできあがったのです。

 

 

たまたま多くの人と同じように産まれ、

不自由な部分や不便を感じることもなく、

同じように成長してきた。

 

それで「良かった」とか、「自分の体に感謝しましょう」とかよく言われます。

そんな当たり前に思えることに、普通に思えることに、感謝をしましょうと言われます。

 

え?

じゃあ、そうでなかったら感謝できないこと?

そうでなかったらその命の体は良くないこと?

存在価値のないもの?

 

 

健康であることを、障害のないことを「ふつう」というならば

 

それさえすでに偏見的な言い方に感じるのはおかしいですか?

 

たまたま障害のない体に産まれてきてみたらその他おおぜいだった、そういうご縁だった……って変ですか?

 

障害があっても

五体満足でなかったにしても

おなじ命であることは間違いないし、大切であるのも同じだし。

 

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Photo by shikanosuke

【五体が揃っていなければ満足じゃない?】

 

そもそも五体満足という言葉すら最近は抵抗を感じる方もいます。

「何の障害もなければ満足」という表現に違和感を感じられるのだと思います。

 

つまりそれが「ふつう」という言葉を勝手に定義されてしまっていることによるものではないでしょうか。

 

こういうことを言うと、きれいごとだといわれると思います。

はい、確かにきれいごと。

 

そして身内に障害のある人がいて、ケアをしながら生活をしていて

何かしらの苦労をされている方からすれば

 

「大変さなど何もわからないくせに、勝手なことを言わないでほしい!」

 

そんなふうに言われると思います。

 

 

ですが、人口の多くを占めている障害のほとんどない人間は、

 

たまたまこういう体で産まれてきたのであって

 

もしかしたら腕が一本しかなかったかもしれないし

耳が聞こえなかったかもしれない。

目が見えなかったかもしれない。

あるいはひょっとして目が3つあったかもしれない。

 

そういうのって五体満足とは言わないのですよね?

でも、だからと言って必ずしも満足していないとは言い切れないってことはないのでしょうか?

 

障害があっても、たとえ不便や不自由は感じても、自分の人生に満足している人だっておられるはずです。

五体が揃っていなくても、五体が健全ではないにしても、満足だとおっしゃる方、おられると思います……ちがう?

 

 

【健常者であることは「たまたま」その他おおぜいであった】

 

健康な体であることは、

障害のない体に産まれてきたことにもちろん感謝はしても、

 

障害のなかったことは

しつこいようですが

たまたまそういうご縁だったんだと思います。

 

冒頭でご紹介したように、何かしらの障害を持っていらっしゃる方はそれが人口分布でみると少数民族なだけなんです。

 

たまたまそうでない人の方が多かったんです。

 

でもみんな、この同じ社会を形成:している同じ地球人なのです。

 

私、鹿之助は

たまたま目がふたつあり、耳が顔の左右にあって、象と同じように太い足があり、

たまたま象とは違って手と足で2本づつに分かれていますが、

たまたまその2本だけで歩くことができたのです。

 

こんな人間より、体にすこし、もしくはたくさんちがう部分を持っておられる方のほうが人数的に少ないだけなんです。

 

 

可愛らしい花を咲かせる絶滅危惧種の二ホンタンポポ
借財写真pakutaso 今では珍しい日本タンポポ

 

おわりに

 

この社会は多い人のためのものではなく

ひとりひとりのものであり

みんなのものであるといいます。

 

本当にそう思っているなら、もっと不便を感じている人の不便を減らしてほしいです。

 

 

障害があろうとなかろうと、みんなそれぞれ「たまたまそういうご縁」だったのではないですか?

 

それゆえ、この世の中は健常者のためにあるのではなく、

産まれてきた人、動物、植物などあらゆる全てのもののためにあるのだということを、原点に還って思い巡らすことがたまにはあっても……いいんじゃない?

 

背伸びして周りを警戒するオグロプレーリードッグ

 

と、鹿之助は思ったわけですが、そこは賛否両論、あると思います。

 

そう、体も考えも世の中さまざまな人で成り立っています。

たまたまこんなことをつぶやく人間もいます。

 

以上、異議ありと思われる方、どうか寛大な心でご容赦ください。

 

さいごまでお付き合いありがとうございました。

 

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